【書籍】司馬遼太郎著「坂の上の雲」|日露戦争を描いた長編作品

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司馬遼太郎しばりょうたろう氏の代表作の一つです。

読んだきっかけは江川達也先生の漫画「日露戦争物語」を読んだことです。
原作「坂の上の雲」ではないですが、似た構成にはなっています。
漫画の方が日清戦争で終わってしまったので、気になって読むことしました。
(気が向いた時に少しずつ読んでいたので、気が付いたら2年位経ってました。)

概要

作品名著者出版社連載
坂の上の雲司馬遼太郎文藝春秋産経新聞
1968~1972
1999~2000(再)

主人公3人を中心に日露戦争と、そこに至るまでの時代を描いた小説です。
知らずに読んでる時は真之が主人公と思ってました。

秋山好古あきやまよしふる(1859~1930)
秋山真之    さねゆき(1868~1918)
・正岡子規(1867~1902)

構成

<収録内容>

巻数内容年代備考
本編1859~1890上京、子規喀血、野球(*1)
本編/関連地図1894~1901日清戦争、米西戦争、大津事件
本編/関連地図1901~1904日露戦争開戦、子規没
四~七本編/関連地図1904旅順、二〇三高地、明石工作
本編/
あとがき集(付・首山堡しゅざんぽうと落合)/
解説 島田謹ニ   きんじ/関連地図(*2)
1904~1930日露戦争終戦、真之没、好古没

*1
「子規が翻訳した」とあるが、今では「野球」を最初に名付けたのは中馬庚ちゅうまんかなえと言われている。
中馬庚は子規の後輩で、この巻にも登場します。
子規の幼名がのぼるの為、自分の雅号を「野球」「能球」としていた。

*2
「あとがき集」は単行本(全6巻)に収録されていたあとがきです。
「首山堡と落合」は全集の28巻に収録されていた月報の内容で、後にわかった誤りについて言及されたものです。


<出版物>

タイプ巻数年代挿絵・装丁
新聞1968~1972
新聞(再掲載)1999~2000挿絵:下高原健二
単行本全6巻1969~1972装丁:風間完
単行本(新装版)全6巻2004装丁:風間完
文庫全8巻1978装丁:竹内和重
文庫(新装版)全8巻1999装丁:風間完
司馬遼太郎全集24~26巻1973

風間完かざまかん(1919-2003)
東京出身の洋画家、挿絵画家。
元々は洋画を学んでいたが、のちに銅版画も作っていた。

中野区にゆかりがあるということで、中野区立中央図書館にまとめた資料がありました。

・竹内和重(?-2003)
神奈川出身のアートディレクター。

下高原健二しもたかはらけんじ(1914-1992)
鹿児島出身の洋画家、挿絵画家。
大阪にあった信濃橋洋画研究所(1924-1944)で絵画を学ぶ。

テレビドラマ

構成
  • 第1部:上京、日清戦争。
  • 第2部:日露戦争開戦、旅順攻略
  • 第3部:二〇三高地の攻略、日露戦争終戦

<キャスト>
・秋山好古:阿部寛
・秋山真之:本木雅弘
・正岡子規:香川照之

2009~2011年にかけてドラマ化されました。
2024年の今、再放送中なので見ています。

関連施設

<坂の上の雲ミュージアム>

ちなみに、主人公の出身地である愛媛県松山市に坂の上の雲ミュージアムがあります。
作品自体のミュージアムがあるのも凄いですね。

<国立公文書館 アジア歴史資料センター>
※デジタルアーカイブ

「坂の上の雲」に関するページがあります。
登場人物や出来事に関する公文書が見れます。

<司馬遼太郎記念館>

大阪にある司馬遼太郎の記念館です。
テーマ毎に企画展も行われています。

感想

日露戦争は教科書では詳しくやらないので、知らなかったことが沢山あります。
ただ、どこまで史実かはわからないので、あくまで小説であることを前提とした方がいいですね。

日露戦争が薄氷を踏むような戦いだったことは間違いなさそうです。
ロシア側の軍の質の低さロシア革命などの問題があったこと、日本側も無謀な戦いで膨大な被害を出したことは歴史として知っておいた方がいいですね。

明治から昭和の歴史はもっと学ぶべきだと思いますが、臭い物に蓋をする状態なのが残念です。
もう既に歴史ファンタジーになっていますね。

【美術情報】作中に出てくる美術関連

気がついた分だけ書いていきます。

(1巻96頁)愛媛県立松山中学校の図画

絵具はまだ入手しにくかった為、全てエンピツ画だったと書かれています。

(1巻170頁)戯作本

立派な人間は戯作者げさくしゃの本を読まないという価値観があり、江戸時代の学者も大っぴらには読んでなかったようです。
戯作者の例として滝沢馬琴井原西鶴の名前が出ていました。

ちなみに、「滝沢馬琴」の名は明治以降に広まった誤記と言われています。
本名の「滝沢興邦たきざわおきくに」と戯号(戯作用の名)の「曲亭馬琴きょくていばきん」が混ざったとされます。
馬琴の作品に一番多く挿絵を描いたのが葛飾北斎です。(ある時期から無くなったので仲違いがあったという説もあります)

(2巻23頁)芸術家の寿命

子規が芸術家89人に対し、寿命毎の表を作る場面があります。
50代の中に絵師の尾形光琳おがたこうりん(1658-1716:58歳)、池大雅いけのたいが(1723-1776:53歳)が挙げられています。
松尾芭蕉(1644-1694:50歳)も50代と言うことで、着目されています。

(2巻299頁)子規庵の小鳥

子規庵は東京の根岸に住んでいた時の家です。
真之が鳥かごに気付き、子規が画家の浅井忠あさいちゅう(1856-1907)にもらった小鳥と語る場面があります。
浅井忠は同じ画家の中村不折   ふせつ(1866-1943)と共に新聞「日本」の同人として活躍している人物と書かれています。

同人どうじん
所属する団体やグループのこと。
美術においては日本美術院の最高位としても使われる。
一般的に使われる漫画関連の同人とは異なる。

(3巻322頁)従軍画家ウェレシチャーギン

戦艦ペトロパウロウスクで従軍していた画家です。
写生している所を提督マカロフに話しかけられた所で、戦艦が爆発する場面です。
二人ともこの時に戦死するので、この時のやり取りはフィクションですね。

・ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン
 (1842-1904)
ロシアの画家。
1877年の露土戦争ろと    で兄弟の死、自身の負傷を経験し、以降は平和主義者となり、戦争の悲惨さを伝える絵を描くようになる。
日露戦争に従軍して戦死。

1903年には日本の京都や日光を訪れ、絵にも残しています。

(5巻350頁)オルジョニキーゼの博物館

日露戦争で招集された民族の中で北オセチア自治共和国の民族に関する話が出てきました。

司馬遼太郎氏の知人が同国の首都のオルジョニキーゼ市にある博物館で日露戦争で日本軍からの戦利品である軍刀日章旗の切れ端が展示されているそうです。
確証はありませんが、現在の北オセチア国立博物館でしょうかね。

(6巻130頁)大佐の明石元二郎について

明石元二郎あかしもとじろう(1864-1919)は士官学校で絵画、用器画が優れていたそうです。
ネットで調べるとオークションサイトに明石が描いた達磨図の掛け軸が出てきます。(本物かどうかわかりませんが)

明石は日露戦争中にロシアで諜報活動をしており、明石工作とも呼ばれるようです。
革命党を支援したり、ロシアに徴兵されていたポーランドやフィンランドの兵士を降伏するよう促したようです。
日本がそういうことを出来ていたことが意外でした。

ちなみに、日露戦争後は台湾総督になり、台湾の発展に尽力しました。
残念ながら、なかばで病死しますが、そのことを悔い、台湾に埋葬されることを望みました。
遺言に「余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」とあり、台湾に埋葬されました。
偉人ですね。

新北市三芝区の福音山基督教墓地

(8巻287頁)大竜寺近くの景色と広重

真之が子規の菩提寺である大竜寺だいりゅうじ(大龍寺)を訪れた際に、近くの景色を広重の絵を見るようだと書いてました。

(8巻206頁)塚本克熊と長男の塚本張夫

中尉の塚本克熊つかもとかつくま(-1952)は画才があり、東京美術学校へ行って画家になろうとしていたらしいです。
ただ結局は兵学校に行くことになり、画家にはなりませんでした。
その代わりではないですが、長男の塚本張夫つかもとはるお(1907-1990)が画家になります。

克熊はバルチック艦隊の司令長官であるロジェストヴェンスキーを捕まえるのに大きく貢献します。
克熊は高性能な双眼鏡を持っていた為、日本海で行方のわからなくなっていた駆逐艦を発見することができました。
彼がいなければ取り逃がしていた可能性が高かったようです。

代表作「ロシアの少女(マガ嬢)」「やすらぎ」

(8巻329頁)歴史の様式の変化(あとがき五)

徳富蘆花とくとみろかに対する心情、歴史の様式の変化について、絵画で例えている所がありました。

  • 蘆花の作品に対する筆者の心情は暖色
  • 絵画における印象派、キュビスム、抽象画といった変化が文学にもある

(8巻339頁)参謀少佐ヤコブ・メッケルの子孫(あとがき六)

メッケルの曾姪孫そうてっそん(大叔父の逆)にあたる青年アンドレアス・メッケルと会う話がありました。
家に北斎の絵など、人から贈られた物が沢山あったそうです。
また、アンドレアスの兄は絵や詩を書いているとか。


以上

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