【美術】常設展/特別展「文禄の役と洪浩然」名護屋城博物館

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名護屋城博物館
名護屋城博物館

佐賀県唐津市にある名護屋城なごやじょう博物館の感想です。
夏休みに福岡~佐賀を旅行してきました。

概要

展示内容期間
[常設展]
[特別展]
文禄の役と洪浩然こうこうぜん
2023/06/30 ~ 2023/08/27

名護屋城は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として築かれた城です。
名だたる大名が陣を置き、7年間の短い間ですが、約20万人が集まり一つの都市となっていたようです。
今は名護屋城跡と、各地に陣跡の石碑が残っている状態です。

Google Mapでも陣跡が史跡として沢山あります。


戦国時代だけでなく、古代から現代の内容が展示されています。

朝鮮との戦い関わる場所ではありますが、現在では日韓の学術・文化の交流拠点となることを目的としており、両国に関わるイベントや展示が行われています。

構成(常設展)

1.名護屋城以前
   原始・古代の交流
   中世日本の対外交流
2.歴史の中の名護屋城
   黄金の茶室
   肥前名護屋城
   文禄・慶長の役(壬辰じんしん丁酉ていゆう倭乱わらん
   名護屋城にみる桃山文化
   文化の移入
3.名護屋城以後
   江戸時代の交流
4.特別史跡 名護屋城跡並びに陣跡
   近・現代の日本列島と朝鮮半島

巡回展

・なし

感想

歴史や考古学が好きなら楽しめる場所だと思います。
特に戦国時代ですね。

「黄金の茶室」のインパクトは大きいです。

周辺の陣跡を巡るのもいいですが、陣跡は建物があるわけではなく、説明板や堀などの遺構が残っている状態です。
陣跡まで周るのはかなりの強者向けで、博物館と名護屋城跡を見るのが無難です。
広範囲に沢山あるので、興味のある武将の陣跡だけ見に行くのもありですね。

ちなみに、博物館の後ろに木下延俊陣跡があります。
博物館に併設されている屋外展示という感じなので、気軽に見れます。
ただ、武将としての知名度が低いのが惜しい。

木下延俊きのしたのぶとし(1577-1642)
豊後日出藩ぶんごひじはんの初代藩主。
豊臣秀吉の正室(北政所きたのまんどころ)の兄(木下家定きのしたいえさだ)の三男。
秀吉と血のつながりはない。


福岡市博物館で見た 図書「吉見」の銅印がここにもありました。
場所が近いので共通する展示物も出てきますね。

金銅製弥勒菩薩半跏思惟像

No作家名作品名期間備考
金銅製弥勒菩薩半跏思惟はんかしい1.名護屋城以前
金銅製弥勒菩薩半跏思惟像
金銅製弥勒菩薩半跏思惟像

後ろの画像は京都にある広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像です。
手の印相など細かい違いはあります。


黄金の茶室

No作家名作品名期間備考
黄金の茶室20222.歴史の中の名護屋城

2022年3月に公開されたものです。
障子の赤い紋紗もんしゃには豊臣秀吉の桐紋があしらわれています。

黄金の茶室が史料に出てくるのは、秀吉が関白になった1585年からだそうです。
京都御所や大阪城で使われたようです。

中には入ってませんが、外からでも眩しいです。
当時は照明がもっと暗かったから、雰囲気は違うかもしれません。


実際にお茶を飲める体験プログラムもあるようです。

ちなみに、黄金の茶室はMOA美術館や大阪城天守など、色んな場所で復元されています。

MOA美術館のfacebook
大阪城天守閣に関するページ

安宅船/亀甲船

No作家名作品名期間備考
安宅船/亀甲船
安宅船/亀甲船
安宅船/亀甲船

日韓両国の船を再現しています。
日本側が「安宅船」で、朝鮮側が「亀甲船(亀船)」です。

安宅船は見た目からして城なので、防御力が高そう
亀甲船の方が戦闘用の感じで攻撃力が高そう

安宅船あたけぶね
室町時代後期から江戸初期にかけて日本で使われた船。
楯板と呼ばれる装甲板で覆われているのが特徴で、狭間(□や△の穴)もあります。

亀甲船きっこうせん亀船きせん
李氏朝鮮時代に朝鮮で使われた船。
上部を亀甲板と呼ばれる厚板で覆い、亀の形をしているのが特徴。

洪浩然画像【落書】

No作家名作品名期間備考
11洪浩然こうこうぜん画像1783文禄の役と洪浩然(1)
13洪浩然使用の筆17世紀前半文禄の役と洪浩然(1)
38洪浩然譜こうこうぜんふならびに諸家題言しょかだいげん1830頃文禄の役と洪浩然(3)
洪浩然譜
洪浩然譜
制作情報

[制作日]
2023年08月18日 落書き
2023年08月20日 彩色

[道具]
・鉛筆
・色鉛筆
・ノート(リングノート)


洪浩然(1582-1657)
洪浩然は12歳の時に、文禄の役で洞穴に隠れていた所を佐賀の将兵によって捕らえられます。
その時に大きな筆を抱えていた為、上のような絵で描かれています。

その後は佐賀藩の鍋島直茂、勝茂親子に仕え、京都五山を遊学するなど、書家として活躍します。
武士の待遇を受けてましたが、後に返上し、町人の書家としての道を選びます。

帰国を願い出たこともありますが、引き止められたそうです。
1657年に勝茂が没すると、追腹を切りました。


両方の国で洪家一族が時々交流しているようです。


以上

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